映画・テレビ

「リヒテル エニグマ」モンサンジョン撮影

リヒテル生誕100年記念で上映されたモンサンジョン撮影の映像を見てきた。
バチバチと雑音だらけの上、断片的に挿入される過去の演奏で使われたピアノの音が割れていたり、音程が狂っていたり、ひどいものが多い。それでもなぜか心に残るものがある。シューベルトが好きだとリヒテル本人が言っていたし、グールドも言っていたように、殊にシューベルトが深く心に染み渡るものだった。
芸術家が語る人物像は言葉に棘があることが多い気がするけれども、リヒテルの場合も例外ではないようだが、彼の場合は他人に厳しいだけでなく、自分自身にも厳しくて、最後に人生を振り返った時に自分を肯定しきれないことに、やりきれない思いがした。記憶力に優れているのは楽譜を暗譜するときには役立ったとしても、辛く悲しい出来事や、嫌な気持ちも消し去ることができなかったのだろう。

東京都美術館の帰り、上野公園で桜を見て慰められた。1枚目はコマツオトメ原木とあった。エドヒガンの雑種とのこと。濃いピンク色の花。2枚目は樹種はわからなかったけれど、白っぽい花色。

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上野公園を歩いている人は普段以上に外国人が多かった。今日は風が強く気温も低かったので宴会のグループはまだ少なかったようだ。まだ花開いていない木がほとんどで、来週メルニコフの演奏を聴きに行くときには見頃になっているだろうか。


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映画「Pianomania」試写会+エマール トーク

ピーター・ウィスペルウェイの演奏を聴いた感想をまだ書いていないのだけれど、それはもう少し後にして先にエマールのトーク イヴェントの覚書を。

2011.11.17 15:00より トッパンホール

「Pianomania」はドキュメンタリーとして見れば、ピアノ調律師とピアニストとの「プロフェッショナルの現場」ということになるけれど、エマールの話を聞くと、企画が持ち込まれた段階でいかに面白く見せることができるか、制作と出演者との間で協議されていたようだ。イグデスマン&ジョーのコメディ要素も盛り込まれている。

エマールのピアノの音質や音の広がり方に対するこだわりが分かる映画よりも、実は後の語りの方が面白かった。映画の中で話すドイツ語や英語も穏やかだったけれど、聞きとり易くするためにゆっくり話されるフランス語はさらに穏やかな口調ではあっても、内容には曖昧なところはなく、口当たりの良い辛口のシャンパーニュのようだった。

ツアー先に自分の楽器を持ち運ぶピアニストもまれにいるが(ツィメルマンのことかしら)、楽器は運搬途中や運搬先のホールのコンディションで、自宅にある時と同じようにはならないので、エマールは楽器も調律師も専用・専任ということではなく対応している。その様子が映画の中で描かれているのだが、映画はその極端な例である。

現在のピアノはグローバル・スタンダード化して、発展を停めてしまっている。ヤマハの新しいコンサート・ピアノの音が素晴らしいことをもっと多くの人に知ってもらえたらいいと思うが(と、日本国内向けリップサービス)、だからと言ってみんなヤマハのようになるのではなく、様々なメーカーが独自の発展をしていくことが望ましい。

ピアニストの中にはピアノという楽器が音を出す仕組みや構造についての知識が不足している人がいる。
優れた先達であるアルトゥール・ルービンシュタインとクラウディオ・アラウは演奏スタイルは対極にあると言えるほど異なったが、共に語彙が豊富で多くの本を読み知識があった。専門は音楽でも文化を広く知り捉える事が必要である。

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ワールドクラシック@シネマ 2011「コッペリア」

Livespire『ワールドクラシック@シネマ 2011』
バレエ「コッペリア」パリ・オペラ座バレエ
新宿バルト9にて

音楽/レオ・ドリーブ
演出・振付/パトリス・バール
(パリ国立オペラ座バレエ団1996年アルチュール・サン・レオン振付)
装置・衣装/エジオ・トフォルッティ 
照明/イヴ・ベルナール
パリ国立オペラ座バレエ団
コーン・ケッセル指揮コロンヌ管弦楽団
スワニルダ /ドロテ・ジルベール
フランツ /マチアス・エイマン
コッペリウス /ジョゼ・マルティネズ
スパランツァーニ/ファブリス・ブルジョワ

ジョゼ・マルティネスのファンとしては、「万難を排して」観に行った。(大袈裟)
英国ロイヤル・バレエ団のニネット・ド・ヴァロワ版は、スワニルダの行動が意地悪で居心地悪く感じられたのと、物語の展開が緩慢で冗長に感じられるのに対して、バール版は物語の展開と舞台美術が新鮮に感じられた。

スワニルダが若い恋人のフランツにはないコッペリウスの神秘性に惹かれるけれど、コッペリウスが求めていたのは結局スワニルダのもつきらきらと輝くような生命力で、彼女の人格や精神を求めていたわけではなかったようで、そのことに気付いたコッペリウスが急に冷淡になり、スワニルダは傷つき、フランツと共に現実世界へと戻ってくる。
でも、ダスティン・ホフマンの「卒業」のように、ラスト若い二人の将来は必ずしも明るいものではないようだ。これまでの「コッペリア」では希薄だったオペラ「ホフマン物語」と同じ原作「砂男」の怪奇性に軸足をおいた物語に変貌している。

コッペリウスはスパランツァーニのような植物に寄生する大きなラフレシアの花のようで、ジョゼの踊りはいつものようにのびやかで美しかったが、顔の表情は実態のない女性を一途に思いつめるやるせなさ、悲しさを表現しつつ、エロティックでグロテスクな男を怪演していた。
このコッペリアは「砂男」という名前から私が勝手に連想する蟻地獄というより、エロティックでありながら冷めた眼で自分自身と社会を描いた「Les Fleurs du mal」(ボードレール「悪の華」)とか「Le Diable au corps」(ラディゲ「肉体の悪魔」)を連想させた。ジルベールのコケティッシュな美しさやエイマンの軽やかな跳躍も目の保養になったけれど、やはり主人公コッペリウスの踊りというよりも演技が中心になる作品なのだろう。踊りそのものについていえば、あまり特徴がないというか見せ場が少ないように感じたがパトリス・バールのパリ・オペラ座引退記念作品ということのようだ。長年御苦労さまでした。

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サンフランシスコ・バレエ「人魚姫」

サンフランシスコ・バレエといって私が真っ先に思い出すのはユーリ・ポーソホフ。ボリショイからデンマークそしてサンフランシスコ・バレエで踊ったあと現在は振付家として活躍している。「アナニアシヴィリと世界のスターたちⅠ&Ⅱ」DVDでしか観たことがないのに、私の心を射抜いたダンスール・ノーブルが彼。アルブレヒトもジークフリートもタリスマンも至福のひと時を約束してくれる。現役で踊っているときにぜひ観ておきたかった一人。

NHKで放送されたヤンヤン・タンの「人魚姫」は、ハンブルク・バレエの来日公演で観たものとは別物のようだったけれど、あれはあれで面白かった。

シルヴィア・アッツォーニの演技は異形の者という部分をクローズ・アップさせながらも、それが実は現実世界で差別(迫害)される者を思わせて涙を絞り取られたけれど、ヤンヤン・タンは嵌り過ぎて、単におとぎ話と思えてすらすらと物語が進行していくため、泣いている暇がなかった。あれは音楽のせいでもあると思う。日本公演の時の方が、演奏にメリハリがあってヴァイオリンとテルミンのソロ演奏も美しかった。

詩人はロイド・リギンスがハンブルクから客演していて、たぶん演技指導もかねていたのだろう。全体の動きをリードしつつ、実に味わい深い演技だった。私が観た詩人はイヴァン・ウルバンだったのに、デジャヴのように詩人そのものを体現していた。もっと詩人を映して欲しかった。ノイマイヤーの舞台は、舞台のあちらこちらで物語が同時進行していくので、人魚姫と王子ばかりをクローズアップしているとサイド・ストーリーを見逃してしまうおそれがある。詩人がくまちゃんのぬいぐるみを取り出して頬ずりするところが急に映し出されると、このバレエを映像で初めて見た人は不思議に感じるのではないかと思う。確かにあのぬいぐるみを抱えているところは目立つのだけれど・・・

またハンブルクの「人魚姫」を観たくなった。アッツォーニ&リアブコを観たい。今度の来日公演はいつになるのだろう。
ハンブルク・バレエの映像をもっとだしてくれたらいいのに。

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7/26追記

「人魚姫」を観たあと、ノイマイヤー作品を編集したNHK番組の録画をみていてふと思った。≪ノイマイヤーとツィメルマンは声も顔もついでに手指の感じも似てる≫ノイマイヤーにはポーランド人の血が流れていると本人が言っていた。

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ワールドクラシックシネマ2011「白鳥の湖」

はるばる川崎まで行った。3年前までは自転車で行けたのに、今ではかなり遠い。品川から川崎までの風景は懐かしく、ラゾーナもミューザも外側からは変わりないように見えた。

川崎で映画はチネチッタか東宝シネマズがほとんどで、109シネマズ川崎(一番新しいし)は3回目くらい。「以前のチケットの半券はありますか?」と訊かれたが、109シネマズの半券なのかワールドクラシックシネマのものなのかよく確認せずに「いいえ」と答えたけれど、どちらかがあるとなにか割引があったのかしら?上映開始15分前に行ったにも関わらず、スクリーン正面の席が取れたのはラッキー。席の入りは20人あまりで、ガラガラ。やはり東京以外ではなかなか席が埋まらないのかな。チケット代3500円もやむを得ないのかしら。前売りだと3000円だから買っていけばよかった。

振付 ユーリー・グリゴローヴィチ(2001年版)
作曲 ピョートル・チャイコフスキー
出演 マリア・アレクサンドロワ(オデット/オディール)
    ルスラン・スクヴァルツォフ(ジークフリード王子)
    オリガ・スヴォローワ(王妃)
    ニコライ・ツィスカリーゼ(ロットバルト)
指揮 パーヴェル・ソローキン
オーケストラ ボリショイ劇場管弦楽団
(2010年9月26日上演/本編約146分)

演奏がやたらに元気というか雑。管楽器のアンサンブルがそろわないし、オーボエやヴァイオリンのソロも情緒が無い。バレエの伴奏にしてもがっかり。「ジゼル」の演奏の方が良かった。ヴィオラのソロも綺麗だったし。

アレクサンドロワ@オデットは踊り自体はかっちりとこなしていたと思うけど、あのがっちりとした体形のせいか・・・ジークフリートの影が薄いせいか・・・。第1幕2場のパ・ド・ドゥではつい睡魔に負けてしまった。一方オディールでは楽しそうに踊っていて、グラン・フェッテはシングル中心だけどアン・オーも入れていた。

一方ツィスカリーゼ@ロットバルトは生き生きとしてさすがの存在感。

全体的には舞台装置や衣装が英国ロイヤルやパリ・オペラ座よりもチープな印象だったけれど、各国の踊りに加わる花嫁たちの衣装が白を基調にデザインされていて綺麗だった。
来年のボリショイ来日公演に行こうかどうか迷っていて、見るならやはり「白鳥」より「スパルタクス」かなと。知らないダンサーが多いので、どの日を選ぶべきかもう少し研究が必要。

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ワールドクラシックシネマ2011 クラスコンサート/ジゼル

本当に久しぶりに新宿に行った。南口周辺と都庁近辺を除いてここ数年行ったことが無い。新宿三丁目 新宿バルト9 こんなビルが出来ていたのね。今度歌舞伎町のコマ劇場跡に大型シネコンとホテルの複合ビルができるらしい。ミニシアターでしか上映しないようなものとか、名作2本、3本立てとかあるといいのだけど・・・だいたい平日の午前に1回しか上映しないと、観に行ける人が限られてしまう。でもさすがに新宿、6~7割の入り。案外席が埋まっていた。年配の女性グループが一番多かったけれど、定年後の夫婦と思われるカップルも目立った。

クラスコンサートでは小学校低学年くらいの年齢の子供たちからマリア・アレクサンドロワまでが出演し、バーレッスンから始まってパ・ド・ドゥやソロ・バリエーションに至るまでを順を追って見せてくれる。バレエを習っている人には面白いかもしれないけれど、正直見るだけの私には少々退屈だった。アレクサンドロワが安定した踊りで飛びぬけていることはよくわかった。

「ジゼル」はグリゴローヴィチ版なので東京バレエ団によるものと共通点が多いが、一番驚いたのがアルベルト(アルブレヒト)が衣装と剣を置いておく小屋。窓の外部には観音開きの雨戸。その内側に格子の建具があり、なんとそれが引き込み戸。ロシアでは普通に片引き戸が使われているのか、また謎が増えた。

ルンキナのジゼルは綺麗。1幕では陽気な感じではないし、変わり者でもない。グダーノフのアルブレヒトは印象が薄い。アルブレヒトのお付きはクラスコンサートでアレクサンドロワとペアを組んでいた背が高い人?ミルタは不安定でハラハラ。マリ=アニエス・ジロのパ・ド・ブレでの重力を感じさせない移動を思いだしてあれは綺麗だったなぁ、と。

二人とも踊りは上手だけれど、演技が薄いので感動も薄いのかな。単に好みではなかったということかも。

帰宅してコジョカルとルグリが東京バレエ団に客演した時の「ジゼル」録画を見た。
(斎藤友佳理と踊ったオペラ座エトワール退団前の時の方が迫真の演技で感動したけど)ルグリの音楽にピタッと合わせる踊りはいつ見ても凄い。
(やはりコボーとの共演で東京バレエ団に客演した時のほうが凄かったけど)コジョカルの第1幕の可憐な乙女と第2幕の精霊そのものの踊りとの対比が素晴らしかった。

8月のヴィシニョーワとチュージンが東京バレエ団に客演する「ジゼル」はどんなものになるのか今から楽しみ。それにしても東京バレエ団は「ジゼル」に外国人スターを客演させる公演が多い。

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「カティンの森」

「カティンの森」 アンジェイ・ワイダ監督 2007年

ツィメルマンのショパンを聴いた後、あの演奏の背景を多少なりとも知りたいと思うようになった。ちょうどそんな時にこの映画の上映があったので、事件の大雑把な背景は頭に入れて観てきた。(さいたま芸術劇場映像ホール 2010年7月9日)

後ろ手に拘束された捕虜を穴の前に立たせ、頭部から銃撃して次々に殺戮する様子が、口蹄疫に感染した疑いのある家畜を次々に殺して埋めていった映像に重なって見えた。

ロシアが領土拡大をするにあたっては危険因子であるポーランドの指導者であり知識階級であった将校や大学の教員を排除して、自分たちに都合のよい労働力たる農民を残そうとした。しかし、ドイツ軍への抵抗活動を行ってきたパルチザンに参加して生き残った者の中には、共産政権に対しても抵抗を続ける者もいれば、積極的に党に与して権力を手にする者もいた。戦前は家政婦だったスタシャが、パルチザンで活躍した夫のおかげで今では市長夫人となり裕福な生活を送っている。国家間の戦争だけではなく、国内においても知識層と労働者階級間での闘争があったことが象徴的に描かれる。

ペンデレツキの音楽がまるでこの映画のために作曲されたかのようにピタリと嵌っていて、冒頭の青い空と白い雲の映像から、最後のポーランドレクイエムが流れた後の無音のタイトルロールまで、音楽の表現する世界と映像が一体となっているのが驚きだった。
ソ連軍が行ったカティンにおける偽の記録映画上映会でショパンの葬送行進曲(オーケストラによる演奏)が流されていたが、空々しく聴こえたのは大将未亡人ルジャだけではないだろう。

この映画を見た後、ワイダ監督の「地下水道」(1954年)と「コルチャック先生」(1990年)をビデオで観た。この2作品についてはここでは詳しく述べないけれど、いずれも第二次世界大戦中の出来事に焦点をあてたもので、それぞれ立場の異なる人々について描いている。
ナチスやソ連共産党政権の残虐行為はもちろんだけれど、どの地域時代にも血にまみれた事件は枚挙にいとまがなく、迫害され虐げられて人々の遺恨が累々と蓄積され、立場が入れ替われば残虐性を増していくこともある。自分の愛する人を守るために攻撃的になることもあれば、ひたすら耐え忍び自らも共に死んでいく場合もある。

「アンジェイ・ワイダ自作を語る」「アンジェイ・ワイダ 映画と祖国と人生と・・・」といった著作を読むと、ワイダが作曲家のルトスワフスキに畏敬の念を抱いていたことが分かる。ツィメルマンの講演会の中で語られたルトスワフスキに対する尊敬の念を思い出した。祖国を思いながらも亡命せざるを得なかった芸術家、祖国に留まり世界に向けてメッセージを発信し続けた芸術家、才能と野心がありながら早世してしまった芸術家。ワイダとツィメルマンは、立場は異なっても“芸術家の使命“の捉え方が似ている。クレーメル然り。平和を獲得するためには戦わなくてはいけない。ただしその戦いは、暴力によるものではなく、良心や正義感といった人間の精神と知性に依るものなのだ。

話は変わるが、ハーヴァード大学のマイケル・サンデル教授による政治哲学の講義がNHKで放映された。「正義とは」「個人の権利とは」分かりやすい例を交えながら組み立てられ、学生の議論も毎回白熱したもので面白かった。

哲学にしても芸術にしても、それによって空腹が満たされるものではない。でも、それに触れることでより深く現在・過去・未来の問題を理解し、解決の糸口を探ることができるようになれば素晴らしい。
ツィメルマンの演奏が発端となってポーランドの歴史を多少なりとも垣間見ることができた。

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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2010

今年のGWは有楽町へは全く足を向けなかった。NHHで放送された生中継は録画したものを数日かけて観た。おしゃべりが多いので、演奏部分をピックアップしたけれど、ヌーブルジェの演奏が最も印象に残った。いいなぁ、今度機会があったら是非生演奏を聴きたいピアニスト。

ベレゾフスキーが演奏後話しているのを聞きかじったところによると、彼はショパンの曲の中では舟歌が一番好きだと言っていた。彼が演奏したコンチェルトはあまり素敵でもなかったけど。家人は昨年のLFJで聴いたピアニストの中で唯一ベレゾフスキーを覚えていたようで、「熊みたいだったよね。」と言っていた。やはりあの容姿はインパクが強いな。

来年のLFJはリスト、ブルックナー、ブラームス、マーラー、R・シュトラウスらしい。
リストは生誕200年、マーラーは没後100年、他の人は何かしら?ブラームスがこういった企画ではもっとも取り上げやすいので、というか、マーラーとリストでは50年程の開きがあるし、曲も1時間枠では取り上げにくいマーラーと、ポピュラーな曲が少ないリストだけでは確かに構成し難いと思うので、様々なタイプの作曲家を集めてみましたってことかしらん。来年は行こうかな、聴きたい公演のチケット取れるのかしら。

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「エトワール 最後の60日 密着マニュエル・ルグリのバレエ人生」

今頃気が引けるのだが、この番組面白かったところがいくつかあって、録画したものを見直していた。ちょうど「ル・パルク」の「開放」のパ・ド・ドゥが始まった瞬間に「あっ、この前これ観た。」と家人が言った。「なんか日本語しゃべってるのがうるさい。消せないの?グルグルまわるところ、マラーホフとずいぶん違うね。」

衣装を見ただけで、分かるようになった。学習効果がテキメンに表れている。ステージ正面、まん前で見た、そのせいもあるかもしれない。

実は、私がこの録画を見直したのは、ジョゼどこに映っていたかしら?と思ったから。デフィレで舞台に並んだときはエトワールとしてルグリの右にルテステュその右にマルティネス。バレエ学校の子供たちから学校時代のアルバムを手渡される場面の直前、カメラの前を横切るルテステュとマルティネス。”ウォーリーを探せ”状態だったが、最後の舞台にはいなかったようだし、客席にいた?

パトリック・ド・バナとルグリが振リ付けの練習をしている場面は興味深かった。
バナはわざとルグリの動きのタイミングをずらしていく。一連の動きを流れで記憶していくときに、タイミングを外されると、ルグリでもうまくいかない。でもうまくいかずに躓いたところこそが、これから変化していく方向をみせてくれる。
「歌舞伎の玉三郎のように」なんて説明していて、一瞬、バナと玉三郎は結びつかなかったけど、バナは以前ベジャール・バレエにいたからこそ出てくるのが、歌舞伎であり、玉三郎なのね。玉三郎というその言葉を聴いたルグリの動きがガラッと変化したのも面白かった。

「オネーギン」はアデュー公演にルグリ自身が選んだ演目だったと思うが、その良さが映像には映っていなかったように思った。ルグリの演技のせいというよりも、クレールマリ・オスタに無垢な若さと成熟した女性の苦悩とのエロティックな対比を感じられなかったせいかな~。せっかくの機会がもったいなかった。

ドキュメンタリーの最後、通りを歩くルグリは特に周囲の目を引くこともなくたんたんとしていたが、さすがに姿勢がきれいで、あれだったら遠くからでも気がつくように思うのだけど。

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『パリ・オペラ座のすべて』

映画2本を観たついでに、『パリ・オペラ座のすべて』の前売り券を買ったら、おまけにポストカードがついてきました。Image1 Image25

この秋ロードショーとのことで、いつからなのかはわかりません。

映画に出てくる演目は以下のようにパンフレットには書かれています。

ジェニュス

くるみ割り人形

メディアの夢

パキータ

ロミオとジュリエット

ベルナルダの家

オルフェオとエウリディーチェ

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